「サウンドダック」は、社会人の音楽仲間の出会いと交友の場です。 ジャズやボサノバが好きな人が集まり、上手いや下手にとらわれず、自分なりに音楽を楽しもうとできた年齢不問(ヤング・ミドル・シニア)の音楽サークルです。

サウンドダック連絡室(^^♪

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◎ 交流会で気の合う仲間を創り、別の楽器の人と知り合い、世代と立場を超えて交友を広げ、自分の音楽をもっと楽しくしようというコンセプトで集まりましたー(^^♪

(注・記事の日付けはすべて無視して下さい)

◇ 日本中のジャズ・フリークが登場します。 実に面白い!色んな人がいるもんですねー(笑)。けっこう勉強にもなりますよー。                   

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−真っ黒けのフィーリン・ザ・スピリット−



ジャズファンの間でよく、「ブルーノートで一番好きなレコードは何か?」というような話題で盛り上がることがある。
もちろん金曜日の居酒屋orバーでのことであるがー(笑)。
(ブルーノートはレーベルとしてよく話題になるが、何故かプレステッジがレーベルとして話題になったことは一度もないなぁー)




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一般論で名盤となれば、
マイルスの「サムシン・エルス」(クレジットはキャノンボール)、 コルトレーンの「ブルートレーン」、 ソニー・クラークの「クール・ストラッテン」、 リー・モーガンの「キャンディ」、 ケニー・バレルの「ミッドナイトブルー」、 ルー・ドナルドソンの「アリゲーター・ブーガルー」、 ブルー・ミチェルの「ザ・シング・トゥ・ドゥ」、 ハービー・ハンコックの「処女航海」、 ウエイン・ショーターの「ジュジュ」、 ラリー・ヤングの「ユニティ」等などの歴史的録音がすぐに浮かぶだろう。

もちろん、所謂ジャズファンで、「サムシン・エルス」を好きじゃないという人間に出会ったことは今だかってない。
しかし、これほどの名盤になってしまうと、歴史的な意味合いが強すぎて、ことさら、「俺は枯葉のサムシン・エルスだ!」と主張するのも妙に照れくさいもんであるー(苦笑)。



(サムシン・エルスについての余談をちょっとー。
キャノンボールが、初リーダ作で不安だから、マイルスに声を掛け、マイルスが友情参加したが、あまりにもマイルスに存在感があり過ぎたので、ブルーノートの創始者アルフレッド・ライオンが、マスターテープを入れた箱に、ついマイルス・デイビスと書いてしまった、という有名な逸話がある。

しかし、真実はちょっと違うらしい。

プレステッジとの契約に縛られてブルーノートに録音できないマイルスは、無名の若き頃に何度も録音の機会を与えてくれたアルフレッド・ライオンに恩義と義理を感じていた。
後の帝王マイルス・デイビスは、実は義理と人情の人だったのである。

ある日、マイルスからアルフレッドに電話があった。
「いい方法を思いついた。キャノンボールをリーダーにして録音しないかー」。

普通はプロデューサーの仕事であるが、なんと他のミュージシャンのスケジュール調整まで、マイルス自身がした。
そして、すべての選曲もマイルスがし、そのアレンジを持ってブルーノートのスタジオに現れた。

この時にジャズの世界で初めて枯葉が録音された。そして歴史的名盤で、リーダー・クレジットがキャノンボールの「サムシン・エルス」が誕生したのである。
アルフレッド・ライオン自身が、後年、雑誌のインタビューで述べているからこれは事実であるだろう。

サムシン・エルスは、あらゆるジャズのCDの中で、この日本ではいまだに売り上げはナンバーワンであるらしい。実際、4曲目の「ワン・フォ−・ダディ・オー」はいつ聴いても痺れますー)



しかし、名盤×好きという感情を尺度にすれば、ちょっと事情は違ってくる。
そこに、「自分だけ」という密かなニュアンスが入ってくるのだ。
(要するにジャズ・ファンというのはそんなもんですー)

そこで、定番となっている有名盤をちょっと外れたところを、わざとさりげないふりをして言うことになるー(苦笑)。

そのニュアンスで言えば、僕にとってはなんと言っても、グラント・グリーンの「グリーン・ストリート」である。
グラント・グリーンは、一般にもブルーノートの看板ギタリストとしてその名は通っている。
しかし、実に不思議なことに、グラント・グリーンは、究極のジャズ・レーベルであるブルーノートの大スターでありながら、その演奏スタイル、フレーズにほとんどジャズの匂いがしない。

若き天才、三島由紀夫の書いた「金閣寺」を読んだ批評の神様、小林秀雄が、「三島の才能には驚くが、これは小説ではない」と言った有名な言葉がある。
それをパロディれば、「グリーンのヘタウマには驚くが、これはジャズではないー」という感じであるー(爆笑)。
(注ーこれは小説ではない、と言ったのは、あまりに観念的であるという意味です)




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グラント・グリーンは61年に29歳でメジャー・デビュウーをしている。それまでは地元のセントルイスでR&Bのバンドにいた。
ジャズとはちょっと離れたところで音楽をしていた。

そんなブルース・ギターリストが、ツアーでセントルイスを訪れたサックスのルー・ドナルドソンに見出された。

ルーは、60年頃から新しい潮流として生まれたファンキージャズの旗手である。
この出会いがグリーンの運命を決定付けた。アルフレッド・ライオンに推薦されたのである。


アルフレッドは唯の一度もグリーンの演奏を聴かずに、二つ返事で録音の承諾をしたらしい。ルー・ドナルドソンの推薦を信頼していたのである。
アルフレッドはあの音創りの繊細さとはうらはらに、相変わらず、経営者としては肝っ玉が太いー(笑)。
(因みにリー・モーガンの麻薬代は、すべてアルフレッドのポケットマネーから出ていたらしい)

R&B、ブルース、ゴスペルを音楽の基盤に置いていたグラント・グリーンが、生粋のジャズ・レーベル、ブルーノートでデビュウーしたのである。


アルバム、「グリーン・ストリート」を初めて聴いた時は、ぶっ飛んだー。

ドラム&ベースが野太い音で真っ黒にズンズン響く中、ジャズとは風合いが違う、どちらかと言えばR&Bにより近いフレーズが鳴り渡る。

フレーズは、大いに歌いに歌っているけれども、流麗に流れるような所謂ジャズ的なフレーズとまったく違う。
シンプルだが、極めてジャアジィーで真っ黒けに響くのである。
そして何よりファンキーである。
グリーンのギター・スタイルを言葉で要約すれば、シンプル、ジャアジィー、ファンキーの三つの語彙がぴたりとはまるだろう。
(リズム&ブルースのフレーズを中心としながら、随所にチャーリー・パーカーの定番フレーズを、アクセントとして織り込んでいる。その意味においてはジャズと呼べるのだが、そこがグリーンの個性とも言えるし、クレバーなしたたかさとも言える。なかなか商売人であるー笑)


グリーンのデビューした61年前後は、ジャズ史の中で大きな転換期だった。

ジャズ史をざっと大雑把にくくってみると、40年台後半あたりからビバップが起こり、今度はビバップのさらに新しい形として、54年あたりからハード・バップが起こる。

やたら早く、音符を目いっぱいに詰め込んだチャーリー・パーカーやデイジー・ガレスピーの音楽を、クール・ジャズをやっていた弟分のマイルス・デイビス達が、変形させ、改良したのがハード・バップである。

ハード・バップは、ストレートにスピード感を追求したビバップに比べると、シンコペーションが多く、ビートをより細分化しているのが特徴である。

コンセプトにクールさを求めたけれども、ソロにもそうしたリズミックな要素を取り入れたため、演奏全体がより躍動感に溢れるものになった。
さらにブルージィーな要素をも強調している。

クールさと躍動感は相反するものだが、それらが混然一体となった。
音楽としてより複雑になったのである。


さらに、60年頃から、モード・ジャズの流れが起き、フリー・ジャズの伊吹も芽生え始める。
そして、それらが60年代のジャズの大きな流れとなり、新主流派と呼ばれるようになる。
もちろんモードの牽引者もマイルス・デイヴィスである。

一方で、ビ・バップから懸命に離れようとし、ひたすら斬新さを追いかけていくモード、フリーの流れとは逆に、もっとシンプルに、黒人音楽として発展したジャズ本来の躍動感、ファンキーさを追及した流れも起きた。

それがいわゆるファンキー・ジャズである。
レーベル、ブルーノートはオーナーのアルフレッド・ライオンの嗜好もあって、そうしたファンキー・ジャズ路線に力を入れ始めた。


もう30歳に手の届く遅咲きながら、そこに満を持して登場したのが、グラント・グリーンである。




グラント3




61年のデビュウー年は、グリーンの生涯の中でも最も飛ばしに飛ばして快進撃した年である。
まず、ファンキー・オルガンのベビー・フェイス・ウイレットのサイドマンとして参加した、「フェイス・ツー・フェイス」では、サイドマンというよりまるで自身のアルバムであるかのように圧倒的な存在感を示した。

このアルバムは、ほとんどギター・アルバムと言っていいほど、グリーンのギターは個性的で、印象的に鳴り響いている。

おそらく誰もが驚くのが、その独得の音色である。
当時、ブルーノートにはギタリストは、ケニー・バレルしかいなかった。
アルフレッド・ライオンは、ケニー・バレルに十分満足していたから、他の新しいギタリストを発掘する必要がなかったのである。

バレルのギターの音色は、スーパー400というギブソンの最も大きなギターから鳴る、フルアコ特有の柔らかく甘いトーンだった。
この音色は、40年以上経った今でもそうだが、いわゆるジャズ・ギターの王道の音色として、定着している。
ケニー・バレルのギターは、そのスタイル及び、その音色に於いてもハード・バップそのものだった。
やがて、「音」に於いて、66年発表の「ミッドナイト・ブルー」で究極の完成をみる。
(これは大音響のジャズ喫茶で聞くと、何よりも音に痺れますねー)


ジャズ・ギターは、今も昔もフルアコの甘いトーンでなければいけないのだ。
(因みに、スーパー400を愛用するJージャズ・ギタリスト、岡安芳明は、プロになっても25年以上まだ、バレルのあの音に近ずくため、弦、弦高、ピックなど等、日々研究しているそうである)

グリーンの音色は、そう言った甘い従来のジャズ・ギターのトーンとは、まったく音のコンセプトを異にするものだった。
グリーンがデビュウー当時、愛用していて、今でもグラント・グリーンの代名詞になっているギターは、ギブソン330である。

通常のセミアコ・ギターは、内部がセンターで左右に区切られ、完全には空洞ではない。
330は、セミアコと同じ形状でありながら、内部が完全にフル・アコースティックになっている。

さらに、このギターは、「P90」というシング・コイルのピックアップを付けているのが特徴である。
通常のジャズ・ギターは、例外なくハムバッカーという甘いトーンのピックアップを付ける。
P90の音はあえて言うならば、ロックンロールに近いような音である。

(この低音の響かない甲高い330の音は、人によって好き嫌いが激しい。
例えばジム・ホール愛用で有名なダキストの甘くまろやかな音とは対極をなす。
ジム・ホールが好きな人はほぼ例外なくグリーンが嫌いと言う。理由はギター・スタイルとともに、その「音」に違和感を覚えるのである)


現在、ギブソン330は生産されていない。代わって流通しているのは、エピフォンのカジノである。
元々はエピフォン社がギブソン社に対抗して、330と細部までまったく同じモデルを作っていた。
しかし、後年、エピフォン社は、ギブソン者に買収され配下になった。
そこで、ギブソン社は330を廃番にし、エピフォンのカジノが大量に出回るようになった。

グラント・グリーンの代名詞はギブソン330であるが、ビートルズのジョン・レノンの使用楽器としてカジノは有名である。カジノと言えばジョン・レノンをインスピレーションする。

ファンキー・ジャズの旗手グラント・グリーンと、ポップス、ロック界の大スター、ジョン・レノンのギターは、なんと同じギターだったのである。

(因みに、330は現在、プレミアが付いてビンテージで50万、60万円もする。カジノはすべて韓国での大量生産で、市場価格は約7万円ちょっとであろうかー)




グラント4



61年のデビュー・リーダー・アルバム、「ファースト・グラント」に続き、第二弾が前述の「グリーン・ストリート」である。
その後、「サンデイ・モーニング」、「グラント・スタンド」、62年の「フィーリン・ザ・スピリット」と立て続けに、リーダー・アルバムは出る。

個人的には、この61年、62年のデビュウー当時の初々しいリズム&ブルース的ジャズ(奇妙な言い回しだが)の時代が最も好きである。
フレーズに、音色に、まっ黒けのファンキーさに、グラント・グリーンの最もグラント・グリーンたる個性が出ているのが、このデビュウー当時に堰を切ったかのように出た一連の作品群である。



(※ただ今、執筆中。続くー)






2010/12/22 00:00|ちょい音ダイアリー

ー作詞家、阿久悠氏の訃報を聞いてー



作詞家、阿久悠氏の訃報が昨日、夜のニュースで流れた。
ちょっと意外な感じで、他の有名人の訃報に比して、特別、えっと言う驚きがあった。

年齢が不明の感じがずっとしてたのと、独特のちょっと強持ての風貌(意外なほどまったく文芸の匂いのしない)と、その超人的な活躍から、かってに怪物のイメージを作ってたからかも知れないがー。
突然の訃報が何とも不似合いな感じだった。




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阿久悠(以下敬称略)の歌謡界へのデビューは70年だった。
和田アキ子の「笑って許して」、北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」(これはほとんど寺山修二の世界)などだが、この70年と言う年に作詞家のスタートを切ったのが、阿久悠という作詞家を位置ずけるキーポイントだと思う。

(日本に於ける70年という年はまさに、政治、経済、文化、すべての転換期だった。だから阿久悠の70年のデビューはまことに象徴的である。
簡単に言えば高度成長が終わり、完全に戦後の匂いの払拭されたこの時期、新しい時代の変化の予感があったのである)


日本の歌謡曲というジャンルが完全に確立したのは、60年の後半である。
作詞家で言えば、演歌系の藤田まさと、星野哲郎、川内康範、石本美由起、水木かおる、船村徹、ポップス系の永六輔、佐伯孝夫、宮川哲夫、なかにし礼、岩谷時子、安井かずみ、GSブームから出て来た橋本淳などがいたが、そのように60年代歌謡界という確立した世界に、阿久悠は後塵として割って入ろうとしたのである。

天才、阿久悠に匹敵する才能は間違いなく、なかにし礼だが、その先陣を走る先輩と同じ視点で見て、同じ感覚で頷いていては、どうしようもない。

(なかにし礼と阿久悠は、演歌とポップスの両ジャンルが書けた稀有な作詞家だった。しかも、その両翼において郡を抜いて才能を発揮したのは、後にも先にもこの二人だけである。それが天才の証である)

そこで阿久悠は、従来の歌謡曲の今までなかった発想、あるいは極めて恣意的に逆の発想で歌謡曲を捉えようとした。
(仕方がなかったのか、それが元々の本意だったのかはちょっと不明だがー)
後年、本人も「違う道」という表現をしているが、歌詞を聴いていて(読んでいて)も、実によく分かる。

別れる時は笑って別れる、女の方が男を捨てる、女が男をリードしている、醒めた女が出てくる、わざと普通の日常用語を使う、意味不明のシュールな言葉を羅列するなどなど。
つまり従来の歌謡曲の作詞の概念とぜんぶ反対のことを、わざわざ意識的に書いている。
(例えば「女」を意識的に「女性」にしたと後年、述べている)

60年代に歌謡曲が完成した、ということは、同じものを作れば繰り返しになるということだから、阿久悠は新しいコンセプターとして迎えられた。


(なかにし礼とは年齢はほとんど変わらないだろうなぁ、と思ってたら、なんと、先輩なかにし礼の方が1歳年下だったのは、何とも皮肉だがー。
因みに阿久悠となかにし礼は、方法論は違っても、お互いがともにライバルと認め合う唯一の存在だったらしい。

阿久悠の方法論は端的に言えば、徹底したフィクションだった。それに比して、なかにし礼は私小説だった。
あるいは阿久悠は、意識的に反私小説を貫いたとも言える。

まぁ、客観的にジャッジするとなると、阿久悠の書いた小泉今日子の「学園天国」のあの洒落たユウモアーと、年齢を超越したウィットと遊びの世界は、さすがのなかにし礼がどう転んでも書けなかったという意味で、軍配は阿久悠に上がるだろう。

なかにし礼は、文学的な美意識を情感を込めて歌詞に託した。だから、弘田美枝子の「人形の家」は書けても、ピンクレディの歌詞は書けなかった。
一方、阿久悠は、頭の中でゲームをするように、ひとつの世界を創り上げて行く。

しかし、後年に二人が取り組んだ小説の世界では、なかにし礼の作詞の方法論は、自然に小説の執筆に投影されている。
阿久悠の場合は、作詞家が小説を書いたというニュアンスだったが、なかにし礼の場合は、小説家が作詞をしていたというニュアンスがある。

なかにし礼は昭和の終わりで一切、作詞は止めている。
そして、「兄弟」が大ベストセラーになり、「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞したなかにし礼は、文学の世界で作詞以上の大輪を咲かす) 


デビューがあと5年早く65年だったら、歌謡曲の完成を目指した組だっただろうし、あと5年遅く75年だったら、自ら語る「既存の流行歌の本道とは違う道を目指す」というコンセプトも色あせていたかも知れない。




ジョアン




作詞家と作曲家のとコンビいえば、かなり古いがなんといっても、永六輔と中村八大のコンビだろう。
「上を向いて歩こうよ」(坂本九)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)などを生み出した名コンビと言った方が早いかも知れない。

その後に続くのが、なかにし礼と鈴木邦彦だが、阿久悠は、彼らの中でも、特に才能のある相手に恵まれた。
69年に、中山千夏の「あなたの心に」で、作曲家デビューをした都倉俊一である。

中山千夏自身が歌詞を書いたこの曲は、カレッジ・フォーク調のきれいなメロディーが斬新で、幅広く世代を超えて大ヒットした。
この時、都倉はまだ学習院大学の学生だった。

この最強のコンビの手になる、「ジョニーへの伝言」、「五番外のマリー」などは、従来の歌謡曲の感性とは完全に一線を画し、いわゆるロック世代にも自然に受け入れられた。


(因みに、作曲家の筒美京平だけは、特定の作詞家を必要としなかった。
いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」、平山三紀の「真夏の出来事」は両作とも作詞家、橋本淳との作品だが、筒美京平は作曲家として、作詞家を選らばなかったし、作詞家に左右されなかった。

阿久悠との作品では、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)で46年にレコード大賞を受賞している。
作曲という分野で、筒美京平は特出した才能であるから、他と比較は出来ないかも知れない。
それほどの存在であるし、現在も第一線で活躍中である)


ふたりの才能は、ピンク・レディという素材を得て、さらに羽ばたくが、それはもう大人が音楽を通して、縦横無尽に遊んでいるという感覚だった。

今、改めて聴いてみると、その歌詞、メロディー、編曲とも、ウイットと洒落を自在に操って、なんともシュールに軽妙に遊んでいる。
そして、尚且つドンピシャリと狙い通りに大ヒットを放つ。

参考までに、「ペッパー警部」、「SOS」、「渚のシンドバット」を暇つぶしにダウンロードして聴いて見てください。やっぱり笑っちゃいますよねー(笑)。


阿久悠はポップス、演歌ともの広い守備範囲が売りだった。
だだ確認しておく必要があるのは、やはり彼が既存の流行歌の本道と違う道を歩めたのは、いわゆる和製ポップスのジャンルであり(当時は和製ポップスと言われた)、演歌の世界では、まったく60年代のアンチテーゼは書けなかった。

やはり演歌は、日本の伝統的湿っぽさの世界そのものが演歌だということなんでしょうねー、女は出てきても女性は登場できないー(笑)。
「北の宿」(都はるみ)、「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)などは、70年代後半に大ヒットさせながらも、古い、暗い60年代の戦後調演歌そのものではないかー。


(演歌の世界では、さすがの怪物、阿久悠も敵わなかった人物が歌謡界にたった一人だけいる。
都はるみの「あんこ椿は恋の花」、水前寺清子の「一本どっこの唄」、「365歩のマーチ」、北島三郎の「兄弟仁義」、「風雪流れ旅」、小林旭の「自動車ショー唄」等などを作詞した星野哲朗である。

彼は50年代、60年代という戦後のある時期のある匂いを、大衆演劇の世界として見事に活写した。
阿久悠と同じフィクションでも、星野哲朗のフィクションは遥かに情念的で、日本的リアルティがあり、戦後を引きずりつつ高度成長した時代の暗さと明るさがあった。
つまりは昭和の歌謡曲そのものであった)




ジョアン・ジルベルト




阿久悠は広告代理店の出身で、長いことコマーシャルを作っていた。
前職はコピーライターである。最初は、コピーライターの片手間に作詞を始めた。


企業から広告の依頼を受けた広告会社は、ある商品を売り出すために、まずキャッチコピーを作る。
その商品の特性、メリット、他の商品との差別化、どの切り口で捉えどの層にアピールするか、商品開発のコンセプト、大げさに言えばその商品が内包する物語性を、キャッチコピーはほんの数行で簡潔に言い表さなければならない。

タレント(歌手)というレコード会社、プロダクションの「商品」を売り出すために、簡潔で、分かりやすく、何よりもインパクトのあるキャッチコピーを作らなければならない。
その数行のエッセンスでまとめられた極めて戦略的な言葉が、阿久悠の「歌詞」である。

ある狙いを定めた企画に、狙い通りの広告を作る。そこにはまったく作詞家としての一人称的感情移入はない。
広告代理店の宣伝製作課長が、ほとんど阿久悠の肩書きであるー(笑)。それを彼はフリーのプロデューサーとしてやった。

そのスタンスで歌詞を作るわけだから、本人の思い入れのあるジャンルなどは初めからない。
レコード会社、プロダクションから作詞の依頼を受けたタレント、歌手に、企画として関わる世界はすべて自分のジャンルであると言い換えてもいい。


作詞の秘訣は?というような質問にこう答えていた。
「活字というものを喰って、喰って、喰いまくることだ。小説、評論、新聞、一流の雑誌、三流の雑誌、手紙、もちろん人の歌詞、あらゆる広告の文章、果ては巷にあふれる看板の文字まで、およそこの世の活字というものはすべて喰いまくることだ」と述べている。
阿久悠の作詞術に、これは書けるが、これは書けないという限定はない。

実際、八代亜紀、都はるみ、石川さゆり、森進一、五木ひろし、森昌子等のいわゆる演歌系の大物から、尾崎紀世彦、沢田研二、フィンガーファイブ、ピンク・レディ、ペドロ&カプリシャス、山本リンダ、桜田淳子、岩崎宏美、夏木マリ等のポップス系、さらには、当時流行りのアイドルから、果ては、俳優の西田敏行、フォーク歌手の河島英五まで、ぜんぶ網羅して大ヒットを飛ばしているから、これはもう尋常ではない。

そして、前出の46年のレコード大賞、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)に続き、51年に「北の宿まで」(都はるみ)、52年に「勝手にしやがれ」(沢田研二)、53年に「UFO」(ピンク・レディ)で、なんと三年連続レコード大賞を取っている。
受賞したレコード大賞の合計は5回に上る。

それもそれぞれが、脈絡の通じない、まったく傾向を異にする曲ばかりであるから、まさに阿久悠、神の如し慧眼である。


余談であるが、シンガーソングライター河島英五の「時代おくれ」は、いつものように、河島英五本人の作詞作曲と思ってた。

居酒屋の有線放送で、「時代おくれ」が流れていた時、一緒に飲んでた友人との間でこんな会話があった。
「自分で自分のこと言うたらアカンわー(笑)」
「いやー、自分で自分のことあそこまで言えたら本物やでー(笑)」
河島自身が作ったことを前提に、話が盛り上がっていた。
後々に判明したのだが、それがなんと職業作詞家、阿久悠の作詞だったのである。
なんとも笑ってしまったー。(苦笑であるが)

さらにまだエピソードは続く。
これは阿久悠自身が言ってたことであるが、深夜にラジオを聴いていると、自分が作詞した「時代遅れ」が流れた。

すると、それを解説していたある音楽評論家が、その歌詞を書いたのは河島英五だと思い込んで、シンガーソングライター河島英五のその歌詞を褒めたたえたのであるー(笑)。

シンガーソングライターを売りにしたフォーク歌手の一人称の歌まで作ってしまうのは、ほんとうにすごいと感服した。


彼は日常の世界から、言葉を拾い上げ、当てはめ、狙いを定めてヒット曲を製作するマシーンだった。
それも人間の心を深いところで読める、極めて優秀な良く出来たマシーンだった。
阿久悠のすごさを一言で言えば、「血も涙もあるマシーン」だったことだろう。




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昨今、ワイドショーを賑わせた、森進一の「おふくろさん」騒動があった。
森進一が、前置きのナレーションを作者に無断でちょっと入れただけで、作詞家の川内康範(86歳)が大騒ぎして、「森のように心が汚い人間に、心骨を注いだ、おふくろさんは歌わせない」とのたまわった事件であったが、あれはもう完全にお笑いの域に入ってたなぁー(笑)。


(作詞家の川内康範は、 水原弘の「君こそわが命」、 城卓哉の「骨まで愛して」、 青江三奈の「伊勢崎町ブルース」、 クールファイブの「逢わずに愛して」、 森進一の「花と蝶」などの作詞で大ヒットを飛ばしている。

「骨まで愛して」、は日本歌謡曲史上、最もインパクトのある歌詞であると言っていいだろうー(笑)。
中国語圏では、「入骨愛尓」という翻訳で、現在も大ヒットしている。

さらには、小説家として、あの永遠のヒーロー、「月光仮面」の原作者でもあるから、まさに活字の怪人である。 月光仮面のキャッチフレーズは、「憎むな・殺すな・許しましょう」である。なんと、テレビの画面にこの文字が映し出されていたのである。(この殺伐の現代の先取りとも言えるじゃないですかー)

グリコ・森永事件が起きて、お菓子に毒を入れたとの脅迫で、日本中のスーパー、コンビニ、お菓子屋から子供のお菓子が消えた時があった。

それを憂いた正義の味方、月光仮面の川内康範は、大きな新聞広告を打って、「クリスマスの楽しい時期に、子供たちの夢を奪わないでくれ。毒を入れる脅迫を止めてくれるなら、私が1億2000万円を出そう」と犯人に呼びかけた。
1億ではなく、1億2000という端数のある数字に妙なリアリテがあった。

その時、思ったのは、世の中には立派ながら、なんとも奇特な人がいるもんだということと、流行歌の作詞家とは、なんと儲かるもんなんだろう、ということである。なにせ1億2000円だ。新聞広告を打った以上は、やっぱりもう止めまーす、とは言えないではないか。すごいもんである。

そしてグリコ・森永事件の犯人から新聞社に返事の手紙が来た。
それにはこう書いてあった。
「そんな金はいらん。わしら乞食やない」ー笑)


ちょっとエピソードが長くなり本題からそれてしまったが、しかし、まぁ、それはそれとして、そこまで歌謡曲という歌に思い入れがある人がいるのには驚いた。
川内康範、もっか86歳、あの時代のあの人たちはきっとそういうものなのだろうー。

阿久悠は、「ヒット曲製作マシーン」だから、歌をもっとビジネス的に、醒めた目で捉えていると思っていた。
しかし、実は、川内康範に負けず劣らず、そうとう深い思い入れを持って作詞をしていたとの数々の証言がある。
彼は意外なほど終生、歌への情熱を語っていたし、自分を詩人と定義していた。

「歌をお手紙だと思って一通、一通大切に届けてください」などと若い歌手に、なんとも恥ずかしくなるような浮いた言葉をかけていたり、「歌は慰めの道具ではなく、人生を変えるくらいの力を持っているもんだと自惚れている」とかなかなかウエット、且つ情熱的に発言しているのである。


結局は、マシーン性と人間性、理と情、非情と多情、ウエットとドライの相反するものを同時に持っていることが、あらゆる分野での成功の条件かも知れない。

阿久悠が天才だったとしたら、もちろん豊かな文芸的資質を踏まえての上でだが、多情多恨の柔らかい女性的情感と、対極にある冷静でドライなビジネス的マシーン性とが、矛盾なくない交ぜになって、ひとりの作詞家を作っていたことこそがその要因であったのだろう。

文芸の世界は元々が情念の世界であるから、この相反する両面を同時に持ち合わせている人は少ない。
ましてやこの左右両面とも群を抜いてズバ抜けていたのは、後にも先にも阿久悠ただひとりである。


(まったくの余談で、ちょっと例が飛躍するが、小泉純一郎は「非情」と謂われた。確かに政治的には非情だったのは万人が知るところだろう。
しかし、首相秘書官が語るには、彼は感受性がものすごく豊かで、すぐに感動して、実によく泣くというではないか。

そういえば知覧でも号泣していたし、二回目の総裁選の決起集会でも感極まって泣いていたし、ブラジルの日系移民の前で講演した時も、一国の総理が聴衆の前で嗚咽していたなぁー)

ちょっと逆説的な言い方だが、マシーンになるにも、非情になるにも、結局、人間は奥底に流れる熱い感受性がその原動力になるのだろう。




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最後に思いつくまま阿久悠のヒット曲を列挙して故人を偲びます。
きっとその偉業の100分の1ほどでしかありませんがー。


また逢う日まで(尾崎紀世彦)、 ざんげの値打ちもない(北原ミレイ)、 あの鐘を鳴らすのはあなた(和田アキ子)、 さらば涙と言おう(森田健作)、 白い蝶のサンバ(森山加代子)、 どうにもとまらない(山本リンダ)、 せんせい(森昌子)、 ジョニーへの伝言(ペドロ&カプリシャス)、 ピンポンパン体操(番組テーマ曲)、 絹の靴下(夏木マリ)、 街の灯り(堺正章)、 わたしの青い鳥(桜田淳子)、 京都から博多まで(藤圭子)、 個人授業(フィンガーファイブ)、 宇宙戦艦大和(番組テーマ曲)、 ロマンス(岩崎宏美)、 カサブランカ・ダンディ(沢田研二)、 北の宿から(都はるみ)、 恋唄(内山田洋とクールファイブ)、 青春時代(森田公一とトップギャラン)、 林檎殺人事件(郷ひろみ・樹木希林)、 たそがれマイラブ(大橋純子)、 みずいろの手紙(あべ静江)、 ひまわり娘(伊藤咲子)、 熱き心に(小林旭)、 気絶するほど悩ましい(Char)、 ワインカラーのときめき(新井満)、 渚のシンドバット(ピンク・レディ)、 北の蛍(森進一)、 津軽海峡冬景色(石川さゆり)、 舟唄(八代亜紀)、 もしもピアノが弾けたなら(西田敏行)、 居酒屋(五木ひろし・木の実ナナ)、 時代おくれ(河島英五)ー。


売れたシングル盤の累計は、驚異としか言いようがない6800万枚に上る。



21世紀になって、歌詞はサウンドに飲み込まれ、音楽はアーティストの世界になって、歌謡曲は完全に滅び、過去の遺物になった。
歌は世に連れ、世は歌に連れである。
いつのまにか、あの阿久悠でさえも「時代おくれ」になっていたのである。

「歌は時代とのキャッチボールだ」というのが信条だった阿久悠は、時代の変化を肯定的に捉えていた。
きっと何もかも納得して、やすらかに眠っていることだろうー合掌。




2010/12/21 00:00|ちょい音ダイアリー

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